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日芸ブログ。すでに卒業したので、終わり。誤字脱字ばかりのブログだしね。
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スカートめくり物語
窓際の列、前から3番目。隣に座るタケシを羨ましそうに、マサルは見つめていた。おとといの席替えでみきちゃんはマサルの隣から、タケシの隣に移動した。二時間目の算数の時間。外は秋雨、まだ時刻は午前10時だというのにまるで夕方のように薄暗かった。彼は、タケシと小さく会話するみきちゃんの横顔を見つめている。いったいあの二人は何を話しているのだろうか。彼には窓の淀んだ天気色とは裏腹に、二人がとても輝いて見えた。二日前なら、あそこにはタケシではなく、ぼくがいた。

二日前の5時間目である「ゆとりの時間」に月一の席替えが行われた。マサルにとっては、その席替えがとても憂鬱だった。隣に座るみきちゃんのことが好きだったからである。各席はくじ引きで決められる。運が良ければ、もう一度彼女と隣になることができる。いや、後の席か前の席、通路を挟んだ隣で十分だ。そんな気持ちでマサルは先にくじを引いた。ろうか側の一番後だった。席に戻ると、彼の席をみきちゃんは羨ましがっていた。相当の優等生か、目が悪い生徒でない限り、一番後の席は先生の目から一番遠いと思われていたために人気があった。彼女がくじを引く瞬間、彼はどんなに願っただろうか。ただ、そんな願いは空しく、彼女の席は窓際。唯一の救いは「今度は席が遠くなっちゃったね〜残念だな!」そんな明るい一言だった。小学2年生の少女のそんな他愛のない一言が少年の恋の火に一滴の油を落とした。そして、次の瞬間には、恋敵であるタケシが彼女の隣に決まり、彼の心に水が流れ込むと、炎は大きな音ともに動揺した。

「キーンコーンカーンコーン」二時間目の算数が終わり、20分休みに入った。この中休みは、子供達には昼休みと同等の貴重な遊び時間だった。マサルは途中からほとんどノートを取ってないことに気が付いたが、急いで机の上を片し教室を飛び出した。「キャー」遠くのろうかから悲鳴が聞こえた。「まさか、遅かったか!?」マサルは焦って現場に駆け付ける。タケシの後ろ姿が、見えた。その奥には真っ赤な顔で笑うみきちゃんの姿。
「もう〜またタケシくんスカートめくり〜〜〜ほんとにえっちなんだからぁ〜」
みきちゃんの隣で、同じクラスの女の子がタケシの悪口を言っている。そんな悪口がマサルを励ます。しかし、なぜだろうか。みきちゃんの赤い笑い顔がいつものようにマサルの心にとげを刺していく。毎日のように、みきちゃんのスカートの中を垣間みようと恋の攻撃をやめないタケシ。まさか、隣の席になってもそれをやめないとは、マサルには予想もつかなかった。

彼はまっすぐに好きなスカートに飛びつけるタケシが妬ましくてしかたなかった。

な〜んてラブストーリーが書けるぐらい深いんです「スカートめくり」は。60〜70年代年代に突如現れた「スカートめくり」はそれ移行、子供たちの遊び文化に根強く浸透。「平凡パンチ」が若者のバイブルであった時代。ミニスカートブームもこの頃でしょうかね。そもそも「スカートめくり」は思春期に迎える「スカートまくり」=SEXを前提としたエロシュミレーション的な要素を含んでいて、子供達の心に「性」を遊び感覚で教えるのにはもってこいの遊び!?(言い過ぎたかな笑)と言えるだろう。スカートという女性の象徴であるものをめくり、その中の神秘を覗き見るという行為は、将来的にスカートまくり上げ、神秘を解け明かす=SEXの疑似体験であるのだ。めくる=犯す、めくられる=犯される。幼な心のどこかにそんな感情が芽生えるのだ。
安吾も夏も、帰ってきて!
「オレは人間の唇が内側へずるずるとまくれ込む運動を始めて、人間が裏返しになることを想像することがある」
 
デビュー当時の坂口安吾の言葉である。エロ・グロ・ナンセンス全盛の時代であったことを思うと、そこまで以上な発想ではないだろう。人体模型や臓器模型などが展示された衛星博覧会も行われてた時代であるし、安吾が愛読したと言われている谷崎や乱歩にもグロテスクな志向はあるわけだし。 

代表作とされる「白痴」のラスト近く、主人公の井沢が自分に頼りきって眠る白痴の女を豚そのものだ、と想像する。その夢想が井沢の幼い頃の記憶の断片と混じり合いこんなモノが生まれる。崩れたコンクリートの陰で、女が一人の男に押さえつけられ、男は女をねじ倒して、肉体の行為に耽りながら、男は女の尻の肉をむしりとって食べている。女の尻の肉はだんだん少なくなるが、女は肉慾のことを考えているだけであった。この夢想はなんの前触れもなく挿入されている。グロテスクなものは虚無をはらむ。異常、極端、奇形、病的なものに対する戦慄や畏怖が、刹那、心を空洞にさせる。安吾文学の根はそこにある。

「私はいつも神様の国へ行こうとしながら地獄の門を潜ってしまう人間だ。ともかく私は始めから地獄の門をめざして出掛ける時でも、神様の国へ行こうということを忘れたことのない甘ったるい人間だった」 

「私は海を抱きしめていたい」の書き出しであるが、安吾はたえずそんなふうに生きてきたし、生きていった。主人公は今に、悪魔にも神様にも復讐されると信じていた。恐らく、安吾自身もそうであった。だが、主人公はある不感症の女を抱くことによってひとときの安心を得るようになる。「私は女が肉体の満足を知らないということの中に、私自身のふるさとを見出したのだ」さらにこの小説にはこんな挿入もある。孤独は人間のふるさとである、という安吾の言葉を真に表している。不具な女の体を海ととらえ、無慈悲であり、無感動な海という肉体が男に清潔さと孤独さを与えた。女の真実から見放された肉体は、男にふるさとを思い出させたのである。

海とはまさに虚無である。安吾は虚無を愛した。虚無の深淵に人間の本当の美しさを見出したのだ。だからこそ、彼のどんなにグロテスクな表現にも私たちはたびたび、清潔な美を見つけてしまうのではないだろうか。

そして、私は思うのである、虚無を抱きしめていたい。

ってとこですけど、いや〜夏ももう終わるんですかね?海、山、もっと行きたかったな〜。虚無だけじゃなくて、ほら!女の子も抱きしめたいじゃないですか?海も、山も、酒も、パーティーも抱きしめたいじゃないですか?この夏、本も全然読めなかったな〜。
喘ぎ声
日曜からIBIZA島に行ってきます。

何度か紹介した湯山玲子さんの関係で、SWITCHの取材に同行させてもらえることになったんで。っていってもあくまでも同行ですよ。しかも、作家の中原昌也さんも来るとか。うれしい!!!まあ楽しんできますので。

帰ってきたら詳しくお伝えしますので〜

んで、本場のハウスを聞く前に一年足らずしか聞いてないハウスで一筆です。まあほとんど体当たりな感じですんで。どうぞ〜

と、ハウス好きに一言。このテキスト“French Kiss”聞く前に書いたんで!!!
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書き出し
この風の強さならソウはすっかり飛ばされてしまうだろうと思った。

稚内港についたのは夕方の五時であった。利尻島、礼文島の疲れが八月中旬とは考えられない肌寒さと、強風によって一気に彼から流れ出る。

フェリーから50ccのバイクで降りる。荷台にはテント、寝袋をはじめ多くの旅道具が詰まれている。この風では高台のキャンプ場では寝泊まりは不可能であろうか。いや、テントが飛ぼうが自分が飛ぼうが関係なかった。なにしろ、早く眠りにつきたいのだ。彼のテントは三人用の正方形タイプであるから風の影響を受けやすい。嵐などがきたらすぐに吹き飛んでしまう代物である。どうにでもなれ、暗くなる前に眠りにつこう。高台のキャンプ場は無料となっている。強風の影響をもっとも受ける場所である。ああ、飛んでやるさ、いいともどうにでもなるがいいさ。

ソウは六時を回ったころにはすでに眠りについていた。眠りに落ちると同時、西の海の太陽は沈んだ。もちろん、彼はその夕日を見ることはできなかった。見たくもないというのが素直な気持ちなのかもしれない。夕日なんてどうでもいいさ。たとえそれが、未だかつて見たことないような壮麗な日没であっても。そして、こうも思うのだ。人類が未だかつて目にしたことのない美しい夕日とはいったいどんなものであろうか。それは恐らく、人類滅亡の日の黄昏だろうか。俺、太陽の知ったことか、関係ない、といわんばかりに沈んでいく。人類にとっては最後となる日没。そんな絶望という札付きのものでなければならないような気がする。なにしろ、人間とは暗闇に降り注ぐ光に、一つ粒の涙を流す生き物だから。

ソウは丁度十日ほど前に稚内の温泉で(それは日本最北端の温泉という肩書きを持っていた)、裸の男たちに囲まれながら、ある夕日に触れた。彼の目には年老いた男の背中が見えている。今後ますます肉は垂れ、衰退していくだろう背中。そんな背中越しに夕日を見たのだ。まるで、太陽の赤い光に導かれ、その経験豊富な背中が何かを語りかけてくるように映った。いや、あまりにも抽象的すぎるか。ここは日本最北端の温泉で、ああなんて素晴らしい夕日、素晴らしいひととき。そんな感動と老いた背中の対話がなんとも滑稽でならなかった。この光景は二度と忘れることが出来ないだろう。

しかし、次の日、ソウは利尻島に渡り、再度日本最北端の温泉に遭遇する。確かに北海道本土より北に位置する利尻島の温泉こそが日本最北端なのである。彼は稚内で見た夕日を思い浮かべた。もう思い出すことが出来ない。昨日の光景は瞬く間に消えていた。まったく、なんて思い違いをしていたのだろうか。彼には老人の背中と最北端と主張する温泉の外観しか思い出せるものがなかった。沈んでいく太陽そのものには目を向けてはいなかったのではないだろうか。夕日というモノの美しさはいったいどこへいったのだろうか。彼はいったい何に感動していたのだろうか。

仮に、ソウは人類絶滅の際、夕日を見たとしても、あの世でそれ自体を思い出すことは出来ないのではないだろうか。

人間とはなんとも浅はかな生き物なのだろうか。

北海道と言えば写真家の前田真三さん
拓真館
二十歳の空色
つい最近まで一年ほど祖父母の家に居候していた。「もし日本がどこかの国と戦争をすることになったとします。あなたは母国を守るために戦場に行くことが出来ますか」いつか祖父にそう問われたことを覚えている。
戦争の話はよく聞かされていた。祖父は陸軍士官学校に通っていたが、いざ戦争へ、というところで終戦となったため実際戦場には行くことはなかったようだ。ただ肌で戦争を感じた彼には気なるところなのだろう。今の若者を知る上で。ある種若者の代表として答えたのだ。「死ぬことがないなら行ってもいいよ」と。
まったくもってふざけた発言だと思われたに違いない。だが、これが本心である。祖父に質問された時点で、私は機関銃の一つも持たずに、丸腰の状態で気軽に戦場に立っていた。行くには行くが戦う気などはなく、戦わなければ、相手を殺さなければ、私や家族、母国が死ぬなどという考えは毛頭なかったのだ。
空襲によって炎上している家。その側で暖をとる人。その火を必死に消そうとしている人。また、焼け野原で日向ぼっこをする少女。焼け跡をほじくり返しわずかな瀬戸物を探す娘たち。そこに存在する爽やかな笑顔たち。戦場に突如現れた運命に従う人間の美しさ。それを描いた作家が坂口安吾である。「白痴」を代表として多くの小説の登場人物や「堕落論」などエッセイにおける安吾と同じように、私は無邪気に戦場にたたずんでいたようだ。
しかし、命賭けの好奇心で、作家心で、東京に残った彼が眺めた赤や青のカラフルな空と、非現実的な私の憧れが映した空とでは、比べるのもばかな話である。絵本の世界を生きる子供のように彼の文章の中に都合よく居座り、私は鼻を高くしているのだ。どこかで思う。戦争という特殊な経験が小説の厚みになる。芸術家は誰だって特別な体験を欲していると。
現在も戦争は行われている。何人もの軍人や罪のない人々が命を落としている。にもかかわらず、心のどこかで戦争に魅かれているのだ。偉大な破壊の中で生まれる人間の美しさに触れてみたいと思ってしまう。戦争を体験したい、死ぬことなしに。そう、私は生きたいのだ。
昨夜テレビをつけるとロイター通信の記者が誤爆を受けたという映像が流れていた。血生臭い。普段から冷静に状況を伝えてきたある女性日本人記者が泣き叫んでいる。私はほんの何秒か後に涙がこぼれそうになった。戦争が多くの悲しみや苦しみを生むことを知りながら、無知な子供に自分を置き換え、都合のいいことばかり。いまだ社会から逃れようとしていたことに気が付いた。多くの命が絶えること、憎しみや悲しみでいっぱいの文字を前にいまだ読み方が分からない、と避けている。自分は戦争に憧れているふりをしているのかもしれない。自分は子供にもなれず、まだ大人にもなれないのだ。
「空を真っ赤に染めた東京大空襲の時、家を焼け出された。それまで机の下や防空壕でケラケラ笑っていたのよ。だけど、焼け跡のこげた樹や焦げてくさくなった衣服を見て、涙がこぼれたわ。その時私は大人になった気がしたのよ」
当時十七歳で戦争を体験した祖母の言葉である。それがなんだか頭から離れなくなった。     
私は四月で二十歳になった。見上げる空は平和そのものだ。
サングラス
 サングラスとは、なんともスケベな道具である。
となんだかとっつきにくい出だしではあるが、私はそう信じて止まないのである。みなさん、少しの間この馬鹿者に付き合ってみてはどうだろうか。
さておき、サングラスとは一般的に色つきのレンズによってまぶしさ、または紫外線、赤外線から目を守るものである。
しかし、私はこう信じている。まぶしさの回避としてかけている人などは、少しのスポーツ選手ぐらいしかいない。これは競技のためである。あとのほとんどがサングラスをかけることによってスケベを堪能しているのだ。ん、有名人や極悪人が正体を隠すためにサングラスをかけるじゃないかって。ああ、あれはいいわけだよ。聞いてほしい。ここで注意しなくてはならない。エロスとはもともとどんな人間であっても持っているものであるんだ。だから、この際、爽やかな汗を流すあのスポーツ選手でさえ、いやらしさ故にサングラスをかけているんだ。まあなにしろ、サングラスなどがなくとも世にはエロスが氾濫しているんだけどね。
私が主張するのは、人が生きる時、ものを創くる時、人を愛する時、数々の場面で活躍してきたエロスを開放し、堪能できる道具が身近にあるということである。そして、そんな裏世界の道具が表世界に少しも憚ることなく流出しているというまさに人類の危機について声を大にして伝えたいのである。
街を歩く人込みに突如、裸にハイヒールの女性が現れたら、世の男性諸君は否応なしに目を奪われることは間違いないだろう。ただ次ぎの瞬間には恥じらいから目をそらすしかない。しかし、そんな中サングラスをかけた彼だけが、思う存分プリプリと引き締まったお尻や、豊満な胸を凝視することができるのだ。ここで彼は他の人と比べ、劇的な変身をとげた人間といっても過言ではない。いや、むしろ羞恥心というエロスには欠かせないものを失ったこの状態はエロスとは呼べないのかもしれない。   
スケベ心にはかならず羞恥心という邪魔くさいものがついている。(羞恥心がたまらない。という人間も多くいるが)それを彼はサングラスによって取り除いたのだ。彼がサングラスの中にどんなに嫌らしい眼差しをもっているか想像してもらいたい。まさにそれは悪魔の眼差しに違いない。眼は暗黒に包まれ、体の奥底からドロドロとしたものが沸き出始めるのだ。
さて、視野を少しひろげてみたい。変身をとげた彼の回りにいる多くの人に目を向けてほしい。周囲の人の中で一人でも彼の変身に気が付いた人間がいるだろうか。気が付くわけはない。彼はただサングラスをかけている人間にすぎないのだから。
ここで少々強引ではあるが、カフカの「変身」においてのグレゴールの変身と彼の変身とを比べてみたい。
「変身」の主人公であるグレゴールはある朝自分が一匹の巨大な虫になっているのに気が付く。こんな奇怪な出来事を幕切れとして物語は淡々と展開されていく。まるで、その事が日常茶飯事と言わんばかりに、グレゴール本人をはじめその家族ですら虫への変身を不思議がる者がいないのである。誰もなぜグレゴールが変身したのか、なんて気味が悪いんだ、なんてことを言わないのである。この状況はまさに、サングラスをかけた時に起こる症状に似てはいまいか。
 「変身」の中で虫に変身したグレゴールはだんだん人間の生活を忘れてしまう。ゲテモノを食し始め、とうとう愛用していた家具でさえ、部屋を自由に這いまわれるように取っ払ってほしいと思いはじめるのだ。彼は人間に戻りたいと願いつつも、それとは裏腹に虫の生活に従事していた。
では、サングラスをかけて変身を遂げた彼にも同じような現象が起こるだろうか。誰も簡単には否定はできない。闇の小道具によってスケベ満開の彼は二度とサングラスをはずすことができなくなるのかもしれないのだ。
私はここで新たに主張したい。こんなにも危険な小道具はすべて排除すべきである。または、世界中のみんながサングラスをかけるか、もしくは全員が裸かとなり、乱交がどこかしこで行われるか、どちらかでないと近い将来、エロスのバランスが崩れるであろう。これは地球単位での問題である。
桜の樹の力
 桜の樹の下には屍体が埋まっている!
 
 確かに基次郎は、私にこう言った。爛漫に咲き乱れる桜の樹の下には屍体が埋まっているとね。それは、腐乱し、蛆がわき、水晶のような液を垂らしている、そう言ったんだ。桜の根はその屍体を蛸のように抱え、その液を吸っている、とね。そう別に私は納得いかない訳ではないんだ。彼の言いたいことは分かるよ。そう私も同じだ、基次郎、君は桜になりたかっただけだ。そうじゃなかったのかい。いや、強制はしない。ただ、私は屍体を抱えた麗しい桜になりたいと思っているんだ。

 それにこの話、桜の樹の下に屍体が埋まっているなんて話を手放しに信じている訳ではないんだ。私は一度目撃しているんだ。屍体が桜の下で土に還る様をね。身体が消えていく妖艶な光景をね。安吾の『桜の森の満開の下』。もちろん知っているだろ。ここでは桜はなんとも怖しいものとして扱われているんだ。この物語では誰ひとりとして桜の樹の下を通ろうとはしない。いや、出来ないんだ。樹の下には冷たい空気が漂い、背筋を凍らせる。誰もが樹の下には留まれず、走り出してしまう。咲き乱れる桜の美しさ故だろうか。ちりゆく花びらとともに魂までも散ってしまうからだろうか。桜の樹の下には、孤独がある。そんなことさえ安吾は言ったんだ。
 
 私は見たよ。容赦なく着物をはぎ、人の命を奪ってしまう山賊でさえ、桜の森を怖れたんだ。そして、山賊は桜と同じように自分の女房も怖れたんだ。無気味な美しさで存在を透明にしてしまう桜の力と女の力を、いつの頃からか重ねあわせていたんだ。この女房は、生首でおままごとをするなんとも奇怪な魅力を持つ女でね。女房は山賊に多くの命を奪わせ、生首を集めさせたんだ。腐乱していく首で遊ぶ女を、山賊の旦那はなまめかしいとさえ思っていたんだ。まさに女の魔術にかかった男はいいなりだった。若い女の生首がほしい。老婆の生首がほしい。そして、自分自身がその魔術の一つになりたいというのが男の願いになっていたんだ。
 
 しかし、山賊は次第に退屈になった。女の魔術によって透明にされた男は自分の存在理由をある時、空に問いかけたんだ。結局、男は満開の桜の下で女を殺した。散りばめられた花びらに女の屍体は消えてなくなったんだ。そして、男の身体も消えたんだよ。
 
 桜の樹の魅力、それは屍体を抱えていること。そうじゃないかな。ん、確かにそれだけでは解りずらい。でも考えてみてほしい。人は誰もが、屍体のような闇を心の根に持っているんじゃないかな。桜の樹をよく見てごらんよ。それを受け入れ、抱きしめることで美しい花を咲かせるなんて素敵なことじゃないか、そう思うんだ。確かにこれはとてつもなく空虚なことだよ。基次郎、君も言っていたけど、人の心をうたずにはおかない、不思議な美しさは酷く陰気なものでもあるんだ。君に安全剃刀を想像させたようにね。美しさから不安さえ生まれるんだ。だけど、そんな幻想を見させてくれる力が明らかに桜の樹には存在するんだ。憂鬱で空虚な、なんにも意味を持たない力にこそ、生きる力、夢を描く力があるんじゃないかなと思うんだ。山賊がそうであったように、もしくは基次郎、君もそうであったように、透明な自分の存在理由を問わせる力があるんじゃないかな。

 一見、男根を想像させる枝に咲き乱れる淡い花びら。そんな欲望に満ちた花越しに見る世界はまさに醜い。私たちの住む汚れた世の中をさらにすさんだものに見せるのさ。それも桜の鮮やかさ故だ。いつまでも樹のつくる空間に身を置きたいと誰もが願うんだ。たとえそこにいくつかの屍体が埋まっていたとしてもね。むしろ、そこでみなが己の内にある屍体の存在に気づかされるんだ。そして、桜の力によって誰もがその屍体を、心の闇を抱きしめてしまうんだよ。

どうだい。素敵だろう。
 
 桜の樹の下には屍体が埋まっている! そして、私の中にも! 私はあの桜の樹になりたい。
虚無の深淵
 虚無から俺は
 かっこよさとは、とてもむなしいもの。なぜなら、かっこよさとは目で見ようとしても見えず、聞こうとしても聞こえない、触れることのできない代物だから。
 「えっ、まったく君は何を言っているんだい 。かっこよさが目に見えないって。じゃあ、彼を見てごらんよ。あの長い足がかっこよくないとでも言うのかい。あのスマートの足はにせものなのかい。ほら、あのクールなスタイル自体を、どう表現してくれるんだい」
 男は俺の右肩をかるく叩くと、あきれたような調子で言った。
 そう言われておれは足長おじさんの方をふりむいた。しかし、そこにはおじさんの影のみが映っている。ただ影による効果は絶対であり、あしは胴の何十倍も伸びている。俺は目を落としておのれの短い足を見つめた。それから低い鼻をもぎ取り、頭でっかちの頭蓋骨をたたき壊した。はげているおでこを何百回もパチパチ鳴らしたりもした。
 「だけど、俺は自分を否定しているわけではない」
 いったい人間のどこにかっこよさがあるのだろうか。そもそも、足が長い奴がかっこいいなんて誰が、いつ決めたのだろう。おそらく、それはなんでもよかったのだろう。ひと時代の流れが決めたあいまいな定義。その人、の好みでしかない。または遊びであり、単なる基準でしかない。足が短い奴がかっこいい、という時代や、はげが人気の時代があったって不思議ではない。
 「ちょっと、ごらんになって、なんて美しいはげ頭なんでしょう。あの方のオデコのてかりはまるでダイヤモンドのようですわ」
 「ええそうよ、あの方のてかりは言葉にならないくらい素敵なのよ。まったく眩しいったらないわ」
 二人の貴婦人の会話がずいぶん遠くから聞こえてきそうである。

 あなたのとなりには夢に向かって熱心に努力を重ねている人間はいるだろうか。その男はその目標のために、どんな苦労にも耐えているのだ。自分の時間のほとんどをその夢のために費やすのだ。もちろん、回りの人々はその人を見るたびに口々にこう言うのである
「あんたを見ているとまったくうらやましいったらないよ。僕もおまえぐらい強い信念をもってなにかに取り組んでみたいものだ」
 また、
「君は毎日が本当に楽しそうじゃないか。生きがいがあるっていいよなー」
 いつもぽけっとしている青年たちが話しかけてきた。

 もちろん、夢を追う人には独特の魅力がある。しかし夢は、はかない影でしかない。夢とは幻想であり、実体も何もないのだ。だが、一人の男の抱く夢想は、将来の自分や家族、回りの人々に安楽や、愉快をでっち上げるのだ。同時に夢を与え、期待させるわけだ。そうして、人の魂をくすぐりまわす。夢という罪。なんでもないもの、はかないものによって、男は支えられ、指導され、成長する。そして、人生を動かされているのである。人々はそんな男の生き方をかっこいいと言うだろう。例えそれが、ただの夢=幻想でしかなくても。

 その男の魅力とは、決して触れることのできない虚無を愛し、勇気をもってそこに飛び込んでいけることにある。たしかにそこには何もない。男も気が付いているだろう。だけど、夢を想像できることが毎日を、人生を楽しむ材料となる、それを知っているのだ。
 
「人々が生きるため、行動するためには、喜びや悲しみ、苦しみ、恋愛や夢、たくさんの幻想が必要である。幻想によって生かされている生き物のかっこよさとはやはり、空っぽ。虚無そのものでしかない」
 体温ってだいたい三十六度。だけど私は平熱が少し高いんだ。どう体感してみないかい。ある冬の日にこんなどうしようもないことを言う男に会った。そう考えてごらん。そう想像してごらんよ。そこの北風に吹かれ、今にも凍え死んでしまいそうなお嬢さん。

 ところで、お嬢さんはあるぬくもり、というものを鮮明に覚えているかい。例えば、昔の男のぬくもり、あの独特な暖かさは忘れられない、なんて今でもたまに彼の温度を思い出すわ、そんなことはないだろうか。いや、答えを聞くまでもないのだけど。答えは、いいえだ。なぜかって。まあ待ってくれ。じゃあ、匂いを、あの彼の匂いは忘れられない、こう言うなら話は別なんだよ。匂いってすごく記憶を刺激するから。ある男の香水、あるいは各自が持つ独特の匂いであったなら君は鮮明に覚えているだろうと思うんだ。人、または家庭という方が良いかな、これらはかならずといっていいほどに個人の香りを持ち合わせているのさ。忘れられない、とは大げさではあるかもしれないけど、再会の際、ある香りで懐かしさと少しのはかなさを想起した経験ぐらい君にもあるだろう。まるで、古いアルバムの一ページを開けられたかのように。

 これに比べると、ぬくもりなどというものはなんとも頼りないものじゃないか。だってそうだろう。どんなにぬくい人肌であっても結局は同じなんだ。彼でも彼女でも生きていさえすればみな体温は三十六度なんだ。例外を除けばね。なんでもないことなんだ。抱き合うことだって、同じ温度の水がただ一つのコップの中で交じり合うに過ぎないんだ。だろ。

 ある男は、こいつも本当にどうしようもないことをいう男の一人なんだけどね。ある女の温みを、まるで今まさに触れているかのように思い出せるんだとさ。そうして妄想の中でずっと触れ続けていくんだ、などと私に泣きついてくるんだ。おかしいだろ。

 でね、どうやらこの男はこの女性とは一生会えないそうなんだ。今ではこいつにとっての幸せといったら、潰れた、それはもう冷えきった布団を自分の体温で温める。その過程、コップの中の水が少しずつ温められていくようなゆっくり、ゆっくりとした流れの中で彼女を思い出すことなんだそうだ。なんだか死体の上にもう一度人肌を着込ませるかのように執拗な幸福に包まれることなんだそうだ。そんなことしかないみたいなんだ。こいつときたらしまいには死体を抱きしめるのがもっとも幸せなことなのかもしれないとさえ、言い出すんだ。そのつめたい体が暖まっていく過程はどんなに幸せかってね。

 これは幻想にすぎない。でも、君はあるかい。情熱的に焼きついてしまったぬくもりが。むしろ、私はそんな信頼のある温さがこの世に存在するなら知りたいと思っている。どうして私たち人間はみな同じ体温なんだろう。すべての人間の存在が違うように、なんで肌の温度にも違いをつくらなかったんだろうか。
私は虚無を抱きしめていたい
無頼派の文豪として知られている坂口安吾が文壇にデビューしたのは、一九三一年の一月であった。同人誌「言葉」から「木枯の酒倉にて」が処女作である。アテネ・フランセで出会った葛巻義敏らとの同人誌「言葉」はこれと同じ年に「青い馬」に誌名を変えた。
 「オレは人間の唇が内側へずるずるとまくれ込む運動を始めて、人間が裏返しになることを想像することがある」
 デビュー当時の安吾自身の言葉である。エロ・グロ・ナンセンス全盛の時代であったことを思うと、そこまで以上な発想ではない。人体模型や臓器模型などが展示された衛星博覧会も行われてた時代である。それに、安吾が愛読したと言われている谷崎や乱歩にもグロテスクな志向はあった。
 代表作とされる「白痴」(四六年)のラスト近く、主人公の井沢が自分に頼りきって眠る白痴の女を豚そのもの、と発言している。そして、その夢想が幼い頃の記憶の断片と混じり合う。崩れたコンクリートの陰で、女が一人の男に押さえつけられ、男は女をねじ倒して、肉体の行為に耽りながら、男は女の尻の肉をむしりとって食べている。女の尻の肉はだんだん少なくなるが、女は肉慾のことを考えているだけであった。この夢想はなんの前触れもなく挿入されている。
 グロテスクなものは虚無をはらむ。異常、極端、奇形、病的なものに対する戦慄や畏怖が、刹那、心を空洞にさせる。安吾文学の根はそこにある。
 私はいつも神様の国へ行こうとしながら地獄の門を潜ってしまう人間だ。ともかく私は始めから地獄の門をめざして出掛ける時でも、神様の国へ行こうということを忘れたことのない甘ったるい人間だった。 
「私は海を抱きしめていたい」(四七年)の書き出しである。安吾はたえずそんなふうに生きてきたし、生きていった。主人公は今に、悪魔にも神様にも復讐されると信じていた。恐らく、安吾自身もそうであった。だが、主人公はある不感症の女を抱くことによってひとときの安心を得るようになる。
私は女が肉体の満足を知らないということの中に、私自身のふるさとを見出したのだ。
この挿入は「孤独は人間のふるさとである」という安吾の言葉を真に表している。この小説では、不具な女の体を海ととらえている。無慈悲であり、無感動な海という肉体が男に清潔さと孤独さを与えた。女の真実から見放された肉体は、男にふるさとを思い出させたのである。
海とはまさに虚無である。安吾は虚無を愛した。虚無の深淵に人間の本当の美しさを見出したのだ。だからこそ、彼のどんなにグロテスクな表現にも私たちはたびたび、清潔な美を見つけてしまうのではないだろうか。
そして、私は思うのである、虚無を抱きしめていたい、と。

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